写楽考

「写楽再考」第1回 

「写楽捜索願」。大正十四年一月四日付の東京朝日新聞にこんな物物しい公告が出された。写楽とはもちろん江戸の浮世絵師東洲斎写楽のことである。記事を書いたのは山村耕花という人物。明治から昭和にかけて活躍した版画家だ。
 明治四十三年にドイツの美術史家ユリウス・クルトが「写楽」を世界の三大肖像画家のひとりと絶賛したことから、写楽の浮世絵の人気が急速に高まり、大正初期から写楽捜しが盛んになっていくことに。
 江戸時代の浮世絵師の人名事典ともいえる『増補浮世絵類考』によると、「写楽」の項には「写楽、天明寛政年中の人、俗称斎藤十郎兵衛、居八丁堀に住す、阿波侯の能役者也」の記述がある。写楽が阿波徳島ゆかりの人物であったことは既成の事実として多くの人々に受け入れられていたのだ。
 写楽人気が高まるにつれ、斎藤十郎兵衛なる人物に人々の注目が集まってきた。そこで“捜索”が始まることになるのだが、いくら捜しても見つからない。
 本県出身の人類学者鳥居龍蔵は、写楽が徳島ゆかりの人物として、かねてより親しさを感じていたという。そこで「写楽捜索願」に応えるために帰県して調査をはじめ、春藤某を写楽だとする論文を発表する。別の研究者たちも徳島に調査に来るが、いずれも詳細についてはわからず、「十郎兵衛」の存在すら否定される事態に。第一次写楽ブームだったが、戦争のため一時中断される。
 第二次写楽ブームがやってくるのは昭和三十年代からだ。斎藤十郎兵衛でなく、他の誰かであろうと別人説が主流になる。葛飾北斎だろう、いや喜多川歌麿だ、歌川豊国だ、とつぎからつぎへと別人説が出る始末。新しい説が出るたびにマスコミが飛びつく。「写楽」、「写楽」と賑わしい時代があった。
 そんな写楽ブームにくさびを打ち込むように、突然「斎藤十郎兵衛」の過去帳が発見されたのだ。鳥居龍蔵から始まり、多くの徳島人が写楽を調査研究してきたが、やっと決着がついたのである。平成九年(一九九七年)六月一日、埼玉県越谷市の法光寺に眠っていたものが全国的に広く紹介された。過去帳によると斎藤十郎兵衛の項には、「八町堀地蔵橋 阿州殿内」とあり文政三年(一八二〇)三月七日に亡くなっていることもわかった。
 やはり写楽は徳島ゆかり人物であったのだ。もっと徳島において顕彰を図っていくべきだと思う。東京ではすでに斎藤十郎兵衛が住んでいた八丁堀地蔵橋の観光案内板には写楽と絡めて宣伝している。今、全国で「ゆるキャラ」を通して宣伝合戦が行われているが、徳島にとって写楽こそが大きなキャラクターではないだろうか。国際的にも通用するビッグネームである。その上、二〇二〇年の東京オリンピック開催年は写楽没後二〇〇年という大きな節目の年である。徳島発で写楽を全国に売り込みたい。(徳島新聞、平成29年1月22日付)
 

「写楽再考」第2回

 東洲斎写楽が浮世絵師として活躍したのは寛政6年から翌年までの約10か月に過ぎない。その間に140点余りの絵を描いた。肉筆画も描いているが、そのほとんどは浮世絵あるいは錦絵といわれる木版画で、江戸の歌舞伎役者や相撲取りを主に題材にしたものだ。
 写楽の作画期は4期に分けられるが、1期は大首絵といわれる役者の上半身を大きく捉えたもので、現代でいうブロマイドである。これが一度に28枚刊行された。これらの作品は歌舞伎役者の顔を大きくデフォルメしたもので、あまりにリアルに描きすぎたため当時の評判はよくなかったようだ。2期以降は役者の全身像を描くようになり、最初のインパクトは感じられなくなる。3期は全身像のほか相撲絵や追善絵を描いた。4期は寛政7年正月に刊行され、全身像のほか相撲絵、武者絵を描いている。これをもって写楽は完全に筆を断ち浮世絵界から姿を消すことに。
 注目したいのは相撲絵である。「大童山土俵入り」という作品がある。大童山は出羽国(山形県)出身の数え七歳の怪童。いわゆる”客寄せパンダ”として江戸両国・回向院での寛政6年11月場所に登場した。
左中右の三枚つづきの版画で、中央は大童山が土俵入りし、左右に5人ずつ寛政の花形力士が描かれている。相撲史上初の横綱谷風梶之助や史上最強と謳われた雷電為右衛門らがいる。これらの有名力士の中に徳島出身の勢見山兵右衛門も肩を並べている。
残念ながらこうしたことが徳島であまり知られていない。四股名は徳島市二軒屋町の勢見山から。最高位は小結ながら実力があったとみえて谷風や雷電と引き分け相撲を演じている。
世界的な画家・東洲斎写楽が描いた人物であるにもかかわらず、ほとんど知られていないのはあまりに寂しい。大童山は写楽に描かれたことによって今もその名が残っているのである。もっと顕彰されてしかるべきだと思う。徳島県人にとって大きな誇りとなるのではないだろうか。
 勢見山の墓碑は徳島市城南町1の焼香庵跡墓地にある。鬼面山、緋縅、諭鶴羽ら同時代の江戸で活躍した力士の名が勢見山の墓石に彫り込まれている。
 ちなみにこの焼香庵跡の墓地には三十基にのぼる力士の墓が現存している。全国的にも珍しいことと思われる。徳島における相撲文化の豊かさが味わえる場所だといえるだろう。
きたる三月七日は斎藤十郎兵衛の命日である。「写楽の会」ではこの日を「写楽忌」と定め。写楽並びに勢見山をより多くの人々に知っていただこうとイベントを計画している。関心のある方はぜひご参加いただきたい。(徳島新聞、平成29年2月26日付)